人の為と書いて偽?
偽善の偽である。“いつわり”だ。人の為というこの漢字を作った人も、その使用を認めた人も、世の中の「人のためと言いながら、自分の利益ばかり考えているニセモノ」をずいぶん見聞き、そして体験したんだろうなあと思う。私にはそんな洞察力がないので、この造語能力に、ただただ感心するばかりである。
誰かのために一生懸命やっている人の、深層心理なんかをほじくり返すことより、そのまま認めていくほうがずっと人間らしいと思う。
「人のためにする」という無味乾燥な言葉に“思い”を味付けして「人のためにせずにはいられない、したくなってしまう」とすればどうだろう。「人のため」でOKではないか。「人の為って書いていつわりって読むんだよ」などと吹聴し、人の心に傷を追わせてそのまま逃げるような人には言ってみたいものだ。人のためでもいいから、やれるものならやってごらんなさい。
幸福はいつも背後にある
あるところに一本のローソクの灯があった。
それがある時、光というものは大変明るいものだと聞いた。
「ああ、わしはその光なるものにめぐり逢いたい。
わしの周囲はどちらを向いても闇ばかりだ」
こういって、灯は光を探し求めて歩き廻った。
が、どこにも光なるものを見つけることはできなかった。
だんだんと灯は燃え尽くして、いまや消えかかろうとした。
そしてゆらめきだした。
そこへ、一陣の風が吹いてきて、あわや灯は消えようとした。
その刹那「あっ、わしが光りであった!」と叫んだ。
光を、幸福を探し求めることを止めるとき、その刹那、自分自身が光りであり、幸福そのものであったことがわかるのです。
幸福は即座に自分の足元にあったことを知るのであります。
どんなに苦労多い世渡りでも、どんなに淋しい生活でも、そこに幸福と感謝とがじゅうぶんに感じられるのであります。
不平に思ったのは自分の贅沢でした。
一日の生、これこそ大きな感謝でありました。
一日の生活、これこそ大きな恵みものの中に暮らした一日でありました。
わが力で得たのではない命を一日享受し、わが力で暮らせたのではない一日を送ったこと、これ大きな幸福であります。
人は自説が正しいと思い込む
この世の出来事についても、奥の深いものもあり、またいろんな考えもあり 「こうだ」 と 一概には言えないこともある。でも、テレビでの討論では 「ののしりあう」 場面、「絶対こうだ」と「言いきる場面」 などを見ることがある。そんなこと言いきれないでしょ、と言いたくなる。
人と人との意見の食い違いによる争いは 「自分の考えが正しい」 という前提から起きて いるように思います。言い争ったり、批判する前に相手の意見を冷静に捉え、理解する 努力をし、相手の心の中に入れたら随分言い争いや、批判の感情 は減るように思います。
よくない感情・よくない言葉 によって、最も 悪影響 を与える相手は、自分自身の 心 だと思う。
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