幸福はいつも背後にある
あるところに一本のローソクの灯があった。
それがある時、光というものは大変明るいものだと聞いた。
「ああ、わしはその光なるものにめぐり逢いたい。
わしの周囲はどちらを向いても闇ばかりだ」
こういって、灯は光を探し求めて歩き廻った。
が、どこにも光なるものを見つけることはできなかった。
だんだんと灯は燃え尽くして、いまや消えかかろうとした。
そしてゆらめきだした。
そこへ、一陣の風が吹いてきて、あわや灯は消えようとした。
その刹那「あっ、わしが光りであった!」と叫んだ。
光を、幸福を探し求めることを止めるとき、その刹那、自分自身が光りであり、幸福そのものであったことがわかるのです。
幸福は即座に自分の足元にあったことを知るのであります。
どんなに苦労多い世渡りでも、どんなに淋しい生活でも、そこに幸福と感謝とがじゅうぶんに感じられるのであります。
不平に思ったのは自分の贅沢でした。
一日の生、これこそ大きな感謝でありました。
一日の生活、これこそ大きな恵みものの中に暮らした一日でありました。
わが力で得たのではない命を一日享受し、わが力で暮らせたのではない一日を送ったこと、これ大きな幸福であります。
人は自説が正しいと思い込む
この世の出来事についても、奥の深いものもあり、またいろんな考えもあり 「こうだ」 と 一概には言えないこともある。でも、テレビでの討論では 「ののしりあう」 場面、「絶対こうだ」と「言いきる場面」 などを見ることがある。そんなこと言いきれないでしょ、と言いたくなる。
人と人との意見の食い違いによる争いは 「自分の考えが正しい」 という前提から起きて いるように思います。言い争ったり、批判する前に相手の意見を冷静に捉え、理解する 努力をし、相手の心の中に入れたら随分言い争いや、批判の感情 は減るように思います。
よくない感情・よくない言葉 によって、最も 悪影響 を与える相手は、自分自身の 心 だと思う。
魚 と 亀
あるところに、仲良しの 魚 と 亀 がいました。随分親しい友達で毎日、水の中で一緒に遊んでいました。けれどもある日、亀 がいなくなってしまいました。それから随分長いこと 魚 は 亀 を探しましたが、どこにも見当たりません。あるとき、再び 亀 が姿を現したので、魚 は聞きました。
「君、どこに行っていたの ?」
「陸の上に行っていたんだ」
「えっ陸って何 ?」 魚 は理解できません。お互い友達ですから、亀 は一生懸命、 魚 に陸のことを説明し、魚 もなんとか理解しようとしました。けれどもまったく話がかみ合いません。魚 は陸の話を水の中の 常識 で理解しようとしていたからです。
「陸はとてもいいところだよ。 こことは比較にならないほど大きいんだ」
「水はきれいなの ?」
「いや水はまったくない」。 魚 はびっくりします。
「水がないのにきれいで、いいところなどあるわけがない。 お前の言うことはおかしい」
波どころか水もない。あれもない、これもない。泳げもしない。
相当危険なところではないか。あるいはまったく 存在しない ところではないかと、魚 は結論せざるを得ませんが、亀 はあくまで 「陸はある」 「いいところだ」 と言い張ります。
それぞれが、見てきた世界、体験した世界、育った環境 から 自分の物差し で測って 物事を判断 しています。人間も同じです。この物語の主人公は魚 と 亀 ですが、「つばめ」 と 「にわとり」 だと、また 面白い物語 が出来そうです。
自分たちの周りには、いっぱい理解できない人がいますが、これも 当然 のことですね。
この物語のように 相手 から見たら、自分が 魚 かもしれませんね。多分そうでしょうね。
来るものは拒ます゛、去る者は追わず、人を見て 法 を説け、我、必ずしも 聖 に非ず 彼、必ずしも 愚 に非ず 共に是れ 凡夫 なり
これらの意味深い教えを 「人間関係」 で何か事あるごとに思い出しています。
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