忘れ去られていく旧道
皆さまこんにちは!
あと2日で8月が終わろうとしているのに、真夏の暑さですね・・
20年くらい前は、お盆が過ぎると夜独特の涼しさがやってくる季節感がありましたが、もはや東京も常夏の南国ですね ;^^
皆さまは、「道」について深く考えてみたことございますか?
道?人生の道?
いえ、今回は通行する道です。
不動産業では、切っても切れない分野なのですが、公図(法務局備付の地番地図)を追跡して見ると住宅地などの土地の形状が歴史を重ねてどんどん変わっているのが分かります。
その中で、道だけは不思議な形状で残っていることが多くて、代表的なものは、赤道といって明治・大正の頃まで道として利用されていた無番地の土地が各役所等の地図に赤く塗られていることから「赤道」と言いわれます。
例えば丘の上のお稲荷様の祠にお参りに行く細くて古い道が赤道として残っていたりなど様々です。
昔の道は、多岐にわたり計画的に網羅されていなかったので、生活導線そのものが道として形成されていったようです。
大きな道としては信仰詣で栄えた「街道」があり、弊社の寂しい前面道路もなんと「大山道」という神奈川県の大山阿夫利神社への参詣者の通行した関東の大山街道の一本です。
現在、近隣の幹線道路等の中に埋もれて、街場の裏道としか見えないこの道も街道だったようで、会社の扉を出て江戸時代に歩いた人々の思いに馳せて歩くと
「右」に行くと旧16号と重なり八王子へ出て埼玉へと続く
「左」に行くと129号に合流し厚木方面へ出て大山へと続く
なるほどなぁ~と思い、国土地理院の戦前からの航空写真で我が街、橋本における大山道の移り変わりを入念に調べてみると約10年ごとにこの街道が橋本でどのように消えて(埋もれて)いったかが分かりました。
桑畑しかなかった戦中から街の移り変わり発展とともに旧道はこのように埋もれていってしまうんだな・・と過去を調査すると何か胸が熱くなりました。
その一つが、今も残る橋本1丁目の「棒杭」というものです。
橋本を通る大山道は、埼玉熊谷宿方面〜八王子〜元橋本(旧橋本宿)〜橋本6丁目(当社前面道路)〜橋本1丁目と辿り着きここで、昔、二手に分かれました。
二手の相模川を渡るコースで、塚場を経て水郷田名の「久所の渡し」で渡るコースと、番田を経て当麻の渡しで渡るコースです。
「棒杭」とは、この二手に分かれる場所に建っていた案内の様な杭です。
この棒杭の碑が現在も残っておりますが、旧写真と現写真を照らし合わせると区画整理によって道がなくなってしまった端部分に現在の棒杭の碑があることが分かり、旧道と本当の旧棒杭は、現在は民家の敷地になっているようでした。
現在の航空地図を見ると、ところどころ旧道が現在も小さな道として残っていたり、居住用地として建物が建ってしまっていて跡形もなくなっていたりしているのが分かりましたが、現在の便利な導線である幹線道路や道は、都市計画によって設計的に人工的に作られたものが、街並みに溶けています。
数々の物語やドラマがあったであろう旧道・街道が埋もれてしまったのは、人の歴史や人の道と同じで、人生が重なり人生の道を変えたりして過去が風化する事や、「あの時、あの町にあの人が居てああ生きた」みたいな重なりあって時を経る人間社会の歴史の一端と同じような想いを感じさせます。
不動産業は、地歴の一端を担えるので、素晴らしい職業だと思いました!
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