2012/03/29 10:08:36

私について#8 (バミューダへの旅)

自分は旅行が大好きである。子供のころから、漫画を読むことより、地図帳を見るほうが好きだった。見ながら、「将来ここに行くのだ」と自分に言い聞かせていた。今回、ニューヨークに転勤になったことで、これを機に、米国地域で行きたかったところは、絶対に行こうと思った。


1986年7月、最初にバミューダに行くことにした。「魔の三角地帯」と呼ばれた海域で、映画の題材にもなっていた記憶がある。要は、飛行機や船が突然消えてしまう、というストーリーである。でも、実際は、自分は以前からそう思っていたのだが、素晴らしい海岸リゾートで、ニューヨークから3時間程度で行ける楽園であった。経済的には米国の影響が大であるが、政治的には英国が強い影響力を持っている。現地人は黒人が主だが、とても紳士的で怖いイメージの大男はほとんど見なかった。到着した夜、ホテルで食事をしようと思い、いそいそ出かけたが、そこは英国よろしく、ジャケット着用のレストランであった。入り口でいったん断られた形となったが、気の毒と思ったのか、窓口の人が奥からジャケットを持って来てくれ、中に招き入れてくれた。かなり大きめのジャケットであったが、全く気にならなかった。その親切は忘れることができない。また、その時初めて、海外ではドレスコードが重要であることを認識した。白砂のとても静かなビーチ、海を一望できるゴルフ場でゴルフ三昧、街に出かけて買い物。何もかも新鮮で感激の連続であった。バミューダはタックス フリーの国なので、ウエッジウッドの食器をセットで買ったりした。当時は、バブル期、駐在員の奥様達はこの手の食器を集める事を趣味としていた。


同年12月、東京から妹たちが遊びに来たので、ナイアガラの滝、ボストン、ワシントンD.C.、フィラデルフィアに行った。冬のナイアガラはとても寒いのだが、どうしても早めに行っておきたかったのでそれを実行した。クリスマスだったので、人出が少なく、観光はとてもスムーズに終えることができた。ボストンは、英国調の街並み、その時はまだイギリスに行ったことは無かったのだが勝手にそう思い込んでいた、とハーバード大学。「ある愛の歌」の男、名前は忘れたが、彼がハーバードの学生だったので、撮影はそのキャンパスが使われた。映画も良かったが、その時映ったボストンの景色も素敵だった。ワシントンD.C.は政治の街、アーリントン墓地にもお参りに行った。ワシントンD.C.郊外には、私が日本でお世話になった、越谷にある不動産屋さんの長男、その方は日本食レストランを経営していたが、そこに皆で食事に行った。とても喜んでくれた。その方の弟、二男とは今でも連絡を取っているが、今回、宅建業を始めるに当たり、いろいろアドバイスをしていただいた。フィラデルフィアは「自由の鐘」。あれは本物なのだろうか?






2012/03/28 16:57:55

私について#7 (ニューヨーク)

ニューヨークオフィスでの業務は、債券のセールスであった。東京では、主に日本株のセールスであったが、今度は全く異なる商品でセールスすることとなった。実は自分がニューヨーク勤務の命令を受けた理由は、もともといた日本人駐在員二人が外資系証券会社にトラバーユしたため、急遽、東京から人を送る必要性が生じたためである。その二人は債券担当であったため、自分はその後がまとして送られたのである。着任する前、2週間程、東京債券部でトレーニングを受けさせてもらったのだが、初めての海外での業務が不慣れなものであったので不安があった。ただ、上司が債券部出身であったため、いろいろ教えてくれたので、その不安も徐々に消えていった。いずれにしても、当時は、日本の大手証券会社は、国内で儲かっていたので、どんどん人を海外に送り、ビジネスをグローバルに展開しようとしていた。だから、日本でもまだ一人前でない、自分のような社員も、その真偽はともかく、将来の有望な人材として送り出された。


ニューヨークでの営業は、東京におけるそれと異なり、米国のみならず、南北アメリカというスケールでカバーしていた。自分は、ワシントンD.C.、ウィスコンシン州、テネシー州をカバーしていたが、しばらくたってからは、メキシコ、バルバドス等にも出張し、日本の国債をセールスして歩いた。日本の反対側に位置したところの人たちとは言え、投資家は日本のことを良く研究していた。そんな人たちを相手に、自分のような若造が、日本の金利・為替動向、経済の見通しを語るのは結構厳しかった。今考えると、あの時自分は、どんな顔をして投資家と話していたのか、考えるだけで恥ずかしくなる。きっと、たいしたことは言えてなかったんだろう。


一方、日本は、いよいよバブル中期から後期に至る過程に入っていた。朝、出社してクイックで株価を見ると、日経平均で連日100円以上の上昇、個別銘柄、証券会社もそうであったが、高値更新を続けていた。世界の主力紙は、日本は世界の工場としてもてはやし、その技術力、日本的経営手法を学べと書き立てた。


当時の米国は、第二次産業の急激な衰退を経験していた時期で、「貿易赤字」「財政赤字」の2つの赤字に悩まされていた。思えば、現時点では、日本もそのような国になりつつあるし、米国に至っては、今も全く同じ状況である。EU各国も格差はあるものの、総じて同じような状況にあり、今では、「EU崩壊」などと書き立てられている。どの地域の先進国も財政状態が悪くなってしまったが、ほんとにこれら先進国が「崩壊」するの、と思う。そんなことはないでしょう。新興国が資金供給者として、もっと表舞台に出てくるだろうし、先進国それぞれも、努力して必ず復活すると確信する。エコノミスト・評論家は、世の中のこういう動きに乗じて、極論を持って名を売ろうとするし、メディアは、それをネタに目立つ記事を書き自分の存在感を高めようとするきらいがある。





2012/03/28 10:54:10

私について#6 (ニューヨークへ)

1986年7月4日、今は懐かしい、ノースウェスト航空で成田を発ち、同日午後J.F.K空港に到着した。自分は、飛行機が好きで、「着任時は、B747の2階席に乗って行きたい」と思っていたので、この機会を利用して、その希望を叶えることにした。天井は低かったが、スペースの関係で乗客の数が少なかったので、静かで快適なフライトとなった。到着後、すぐに、ウエストチェスターに決めた新居に直行した。着任の一か月前、出張ベースでニューヨークに来させてもらっていたので、その時既に新居を決めていた。時は、1986年7月4日、この日は米国の独立記念日であるが、幸運にも、この年は、200年を記念する独立記念日であった。自分らは、荷物を置き、独立記念日に上がる花火を見にマンハッタンに出かけた。


バッテリーパークでは、まだ、時間が早かったこともあり、見物に比較的良い場所を確保することができた。そして、自由の女神やフェリーボートをのんびり見ながら、「今後数年ここで暮らすのだから頑張ろう」という決意を持ったものだった。屋台のホットドックは、とても美味しく感じられた。暗くなると、花火が上がった。200年記念ということもあり、スケールを大きくしたのだろう、おびただしい数の花火が上がり、それらは、マンハッタンの夜空を華やかに彩った。素晴らしかった。2時間ぐらい花火を楽しんだ後、家路についたが、人出が凄く、近くの地下鉄の駅では乗車することができず、とにかく俳諧した。どこからどうやってグランドセントラルに行ったか覚えていないが、なんとか、乗りたい電車に乗ることができた。帰宅したのは、午前2時頃だった。


オフィスは、マンハッタンのダウンタウンにあり、家から1時間程度かかった。グランドセントラルまでメトロノースで行き、そこで悪名高き地下鉄に乗り換え、フルトン ストリート駅で下車。そこから徒歩2分、ビルの1階は、当時、日本でも流行り始めていたブルックス ブラザースが入っていた。オフィスは南に面した高層階で、自由の女神とニュージャージーサイドがとても良く見えた。ほんとにニューヨークを感じさせる景色だった。






会社概要

会社名
グランド・プラン
カナ
グランド プラン
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東京都知事免許(3)0093934
代表者
大原 仁
所在地
1510064
東京都渋谷区上原2丁目17−2アハトインセルン101号
TEL
代表:03-5738-7028
FAX
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営業時間
10:00〜17:00
定休日
不定休
最寄駅
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