私が河北新報購読をやめた理由
今までの長い付き合いや習慣を捨てて、違う日常にしてみようと決意するのはいくばくかの抵抗感があるものです。私が購読していた地元で最も売れている河北新報をやめたことには具体的なきっかけがありました。私にとっては絶対に受け入れがたい方向に世論を巧妙な書き方で誘導していると感じられる「見出し」があったためでした。
そのきっかけとなった見出しに関係する事件の判決が先日、最高裁で確定しました。私のざらついた気持ちに司法の判断が下されやっと一区切りがつきました。私の考えと司法判断、裁判員の心情は皆同じ方向を向いていました。つまり河北新報が求めていた(だろう)方向とは逆向きの結果でした。
ではそのきっかけとは何かと申しますと、石巻市で起きた少年による殺傷事件です。裁判員裁判で少年が起こした殺人事件でありながら初めて死刑判決が下されました。1審、2審とも死刑だったのですが、そのことについて当時の河北新報は私が受け入れがたい紙面構成でした。
いったい「誰のための新聞なのかっ。」と怒りのあまり現物はごみ箱に直ちに捨てました。死刑でなければ犯人はわずか数年でシャバに出てきてしまいます。刑期を終えたからと言って必ずしも更生されているとは限らない。復讐により何をされるか・・・。事件の経緯と顛末を知っていれば死刑意外は一般感情として考えられません。被害者の悲しみ、地域の安全を損なう恐れが甚大な人物を野に放つことで生じる将来への恐怖をまるで無視したかのような扱い方が許せなかったのです。
地元の一般的な情報については質も量も他紙を圧倒した素晴らしさがあります。それを差し引いて考えても、私にとってはもう読むには値しないものになっていました。あの残虐な事件の殺人犯をただ「少年だから」という理由で死刑にしないことを擁護することで「誰が幸せになる」というのでしょう。至上稀に見る凶悪犯を「数年後に犯人の名前さえも地元民にはまったく知らされないままでシャバに送り出すこと」に「ことさら熱心な(ように受け止められる見出しを載せる)河北新報」は地元紙だからこそ私にとっては受け入れがたいものになりました。
裁判員裁判は一般人の感覚を司法に生かすために始まりました。裁判員の方たちはおそらく一生懸命に考えたうえで判決を決めたはずです。自分が死刑判決を出さざるを得ない立場なら、と置き換えますと、その決断の勇気に頭が下がります。素人ながらも真摯に裁判と向き合った「裁判員側への愛情」「被害者側への愛情」が河北新報からは読み取れず、「犯人側」にばかり特段の配慮をしているようだと私は受け取りました。
最高裁判決について報じる同社のネットニュースがありましたが、この件に関する「見出し」は、あの時を彷彿とさせられる相変わらずの雰囲気でした。購読をやめていてほんとうに精神的に良かったです。
以下、最高裁判決後の河北の見出しと記事の一部です。
<石巻3人殺傷>更生可能性 言及せず
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201606/20160617_13019.html
<石巻3人殺傷>少年事件厳罰化進む
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201606/20160617_13029.html
<石巻3人殺傷>弁護団「少年法生かされず」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160617-00000006-khks-soci
<石巻3人殺傷>年齢の考え方示せ
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201606/20160617_13027.html
石巻3人殺傷事件/「極刑」審理は尽くされたか
http://www.kahoku.co.jp/editorial/20160617_01.html
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