死刑制度を考える
周期的ではないにしろ、「死刑存続あるいは撤廃」について、マスコミ主導と思われる問題提起がなされますね。
今、まさにそうなっている。
不動産業に携わる人々は、毎日が「法律行為」の連続です。
従って、法律的側面から死刑制度を考える場合に、憲法第31条で「何人も法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ(原文のまま)、又はその他の刑罰を科せられない。
となっている。
法的手続きを正規に経れば、「命を奪っても良い」ということですね。
問題となっているのは、憲法第36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と謳われているからで、要するに死刑が「残虐な刑罰かどうか?」だけが問題になっているわけでしょう。
憲法第31条で、逆説的に死刑制度の正当性が規定されている以上、「残虐」であるから「死刑」は憲法違反だ。
という部分を論じるしかないわけです。
「拷問及び残虐な刑罰」
「又は」ではなく「及び」でくくられている。
精査するまでもなく、拷問を「反復継続して、或いは一定以上の時間をかけて、特定の人物に命に関わるような極度の苦痛を与えること」と定義するとしたら、「1回だけ」の刑罰は、「反復継続でも長期でもない」から、拷問と並ぶほどには、残虐な刑罰とは言えない。
単純に考えると、そういう論理になるように思います。
従って、「死刑制度」は、違憲とまでは言えない。
私は、日本では「命の価値が低い」と思っています。
幼児を虐待して殺しても、放置して飢え死にさせても、まあ懲役10年を越えることがないことも多い。
死刑に至っては、「複数人数」を殺さないことには判決が出ない。
司法として「こりゃ、生かしていても仕方ないと国民的コンセンサスが得られるだろう」というレベルの犯罪でしか、死刑判決が出ていない。
近隣亡国のように、インスタントに死刑になるわけではない。
他国と比べることで、正しい結論が導かれるとは思えませんけれど、「残虐かどうか?」をもって、「違憲かどうか?」の根拠にするという考え方は、「死刑反対論者」に特有のような気がしますね。
または、「国家や国民にとって、別の大きな問題が横たわっている時に、すぐに答えが導かれるわけでもない問題を提起する」ことで、本質的な危機から、多少とも知的レベルの高い層の目をそらす。
その手段としては、実効性があるかもしれませんね。
我々は、まず「なぜ今死刑論議をする必要があるのか?」
そこに目を向けない限り、いつまで経っても、為政者・メディア・第三者に振り回されることになるでしょう。
本当のところ、あなたにも私にも「死刑」などほぼ確実に、過去も現在も将来も、縁のない話なのですから。
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