2019/10/21 11:14:21

神武天皇は三世紀の人?


 このところ神武天皇実在説が勢いを増しているよう。小原氏は神武没年を


272年と提示している。安本氏は更に30年ほど遅い年代を提唱している。


安本氏は数々のデータを駆使して古代天皇の平均在位は10年としている。


この数字は中国やヨーロッパのデータを採ってみてもほぼ同じという。


 仮に、実在していたと思われる21代の雄略天皇が在位11年として没年


から11年を引くと468年になる。


ここから20代遡るには10代×11年、


10代×10年で合計210年遡ることになる。468−210=258年と


なる(生誕時から遡っていくと207年になる)


272年とは14年の誤差しか出ないことになる。


しかしこの頃に神武が大和で亡くなったとすると次の疑問が湧いてくる。



同時期に築造された箸墓古墳は誰の墓?という命題がそれだ。


箸墓古墳の被葬者は倭迹迹日百襲姫命とされている。百襲姫は三輪山


の神との神婚譚があるほか、箸で女陰をついて死んだとの伝承が残されている。


神武が比較的新しい三世紀の人物であったなら、もう少し同様の人間的な


エピソードが伝わっていそうなものと思える。


(仁徳と類似の山から見るエピソードはぴんと来ない)


箸墓古墳の被葬者が百襲姫である筈がない。孝霊天皇皇女とされている


ものの天皇でもない百襲姫が天皇陵よりもさらに巨大な古墳に葬られる訳


がない。


すると箸墓古墳は「神武陵」とするしかないのではないか。


何しろ当時の大権力者は神武の他には見当たらない。


大和を統一した稀代の英雄の墓がないのは不自然とも言える。


畝傍山の近くに神武陵があったと伝わるが、それも中世の頃には位置


不明になってしまった。



巨大な範囲や高さを持っていたなら位置が分からなくなるとは考えにくい。


そして何よりも三世紀の大和の巨大古墳は箸墓古墳だけなのである。


神武が三世紀後半の人だとすれば、箸墓古墳の被葬者は当時の二大権力者、


神武か卑弥呼か、とならないか。


神武が三世紀に活躍していた人物となると、それは邪馬台国の時代であり、


大和と邪馬台国が併存していたことになる。そうすると邪馬台国東遷説は


必然的に消滅するようにみえる。


これに対し安本氏は後に北九州の勢力が東上したとして、卑弥呼はアマテラス


で高天原(アマテラスのいる所)は九州にありとする。


邪馬台国は朝倉市周辺ともいう。すると北九州と神武の故郷鹿児島や


宮崎の南九州との関係はどうなるのであろうか。


日本書紀や古事記の編纂学者は高天原を知っていて、邪馬台国のことは


知らなかったので記述しなかった?ということになるのだろうか。?









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