2021/11/16 11:22:05

トルコ・ポーランドとロシアの違い C



ロシアの日本人シベリア抑留



 第二次世界大戦末期、日本がポツダム宣言を受諾して降伏したのは8月15日である。翌16日には大本営から即時停戦命令が出されて、関東軍は停戦と降伏を決定した。


 その降伏のわずか6日前の8月9日、既に敗色が濃厚だった日本に対して、日ソ中立条約を破棄して、突然日本に対してソ連は宣戦布告した。同時に満州国、日本領朝鮮半島の北部に侵攻した。



 日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領・南樺太へ18日には千島列島にも侵攻し占領した。8月19日には日ソの間で停戦交渉が行われ、武装解除後の在留民間人保護について合意をみたが、ソ連軍はそれを守ることはしなかった。



 8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の文書を作成しソ連側に送付したという。



 占領地域の日本軍は、ソ連軍によって8月下旬までに武装解除されたが、この際には多数の死傷者が出たという。この時に日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず既に除隊していた男性も強引に連行した。このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に違反するものであった。



 連行されたのは日本軍将兵の他に、在満州民間人、満蒙開拓移民団の男性である。行く先は告げずに、ソ連軍は彼らを貨車に詰め込む際に「ダモイ」(帰れるぞ)と叫びながら連行したという。



 千人ほどの作業大隊に編成された捕虜たちは、シベリアの他にもモンゴル、北朝鮮、中国、ウズベキスタン、ウクライナなどのソ連の勢力圏に送られ重労働に従事させられた。


 収容された彼らの毎回の食事は黒パンが一つと薄いスープだけだった。抑留者たちは栄養失調になり、皆が日に日にやせ細っていった。作業は、氷点下の中での森林の伐採や鉄道の敷設、炭鉱での採掘などの重労働であった。衛生状況も劣悪で身体中にノミやシラミが湧き、赤痢やコレラといった伝染病が発生した。



 休養も与えられず酷寒の環境下におかれた抑留者たちは、約6万人が死亡したのである。抑留された日本人は65万人とされ、一説には70万人とも言われ、最高数では200万人との説もある。


モンゴルの収容所では栄養不足から4,000人もの抑留者が死亡した。



1947年から漸く日本への帰国事業が行われ47万3千人が帰国できた。早く帰国できた人でも終戦から2年後であり10年後、11年後になって漸く帰国できた人たちもいた。


 収容所では共産主義の教育が、定期的に実施されていたこともあり、帰国に際しては「日本で共産主義を広める活動をする」と念書を書いて早期に帰国できた者もいた。



 この辛辣で過酷を極めた捕虜に課した重労働、待遇はまことに非人道的なものである。この行為に対して、エリツィンは謝罪の意を表したというが、真摯で日本国民に受け入れられる謝罪はいまだ行ってはいない。



 北方領土交渉においても、ロシアの方針は、出来るだけ日本から投資などで金を引き出すが領土問題では絶対に譲歩しない、というものであろう。


 沈没船救出などではトルコと類似した経緯があったが、同国との相違が際立つように思える。


  アメリカは戦時中に在米の日本人・日系人を収容所に収監した。戦後、


 アメリカはこの政策を過ちと認めて謝罪した。



 日本人の人道的貢献は、多くのユダヤ人の危難を助けた杉原千畝の事例も広く知られているところである。またタイタニック号沈没の際には、他の乗客を優先させて、自分は一番最後に救難ボートに飛び乗った日本人も称賛に値する。


             参考文献 ウィキぺデイア 舞鶴引揚記念館



 





2021/11/12 10:58:54

トルコ・ポーランドとロシアの違い B




 ロシア軍艦沈没救出



 ロシアの提督プチャーチンは使節として1853年に長崎に入港してきた。幕末期であり、日本の開港と北方領土の境界画定をめざしていたが、目的は果たせず一旦は帰国した。


 ペリー艦隊が帰国して4か月後の1854年10月に、プチャーチンは新鋭船ディアナ号に乗って下田港に入った。ディアナ号は3本マストの戦艦で2,000トンあり、大砲は52門、乗員は488人であった。



 日米和親条約に遅れまじとして、日露和親条約の締結と国境画定をめざしていた。プチャーチンの要求により、幕府からは全権大目付・筒井政憲、勘定奉行の川路聖謨が応接係として下田に急行した。


 事前交渉が持たれた後に、11月3日に福泉寺で第一回目の日露交渉が行われた。おりしも、その翌日のことだった。大地震が起こり、大津波が下田に押し寄せた。


 地震は2回あり、大津波は幾度となく押し寄せ、町内の家屋は殆どが流失或いは倒壊し溺死者も122人を数えた。戸数875戸のうち841戸が流失全壊、30戸が半壊、無事だった家は僅かに4戸だけだった。



 この津波により下田の町は壊滅状態となる大惨事であった。湾内が空になるほど、津波が引いた後、停泊していたディアナ号も巻き込まれ42回転したと伝えられている。


 マストは折れ、船体はひどく損傷し、浸水も激しく甲板の大砲が転倒して下敷きになり、死亡した船員も出る惨状だった。このような状況の中でロシア側は、下田の津波見舞いに副官ポシエートに医師も同行させ、傷病者の手当の協力を申し出た。



 この厚意に応接係・村垣範正はいたく感服したと伝えられている。この大地震はマグニチュード8.4ほどで、大破したディアナ号は修理すべく戸田港へと向かったが、激しい波風に押し流されて駿河湾沖に錨をおろした。ここで装備や荷物の殆どを降ろして、地元漁民の決死の協力を得て航行を試みたが、浸水が激しく沈没してしまった。



 乗員は住民などに全員救出されて戸田港へ収容された。帰る船を失ったロシア軍のため、日露共同で代船の建造が始まり船大工が集められ、天城の材木が調達された。日本で最初に完成した様式艦船は「ヘダ号」と名付けられた。


プチャーチン一行は三回に分けて帰国の途についた。



 第一回は米国の商船で、第2回めは「ヘダ号」でプチャーチン以下48人が乗船して帰国した。しかし第3回目の帰国便、米国船はイギリスの軍艦に発見され、全員が捕虜として捕えられた。


 後日、ロシアは「ヘダ号」を日本に返還したという。この頃まではロシアでも騎士道精神が守られていたようだ。



 日露交渉は決着し1855年12月に日露和親条約が締結され、北方領土の境界は択捉島とウルップ島との間と決まった。樺太については境界を定めず従来通り両国で利用するとされた。


 この難交渉では、川路聖謨とプチャーチンが丁々発止とやりあっていたが、後にはお互いに人格を認め合い尊敬の念を高めた両者。現在に至るも両家の子孫の交流は続いている。


                 参考文献 下田市ホームページ


 





2021/11/08 11:01:18

 トルコ・ポーランドとロシアの違い A





ポーランド人孤児救出



 ロシアの極東地域にあたるシベリアは、永久凍土が連なる文字通り酷寒の土地である。1月の平均気温はマイナス40℃で、最低気温は70℃になることもある。地の果て、とも言えるエリアである。


 ポーランドは歴史上周辺強国の侵略をたびたび受けていた。100年ほど前も大国ロシアに従属させられており、抵抗する人々はシベリアに流刑とされ重労働を課されていた。この流刑とされたポーランド人は、その家族を含め15万人から20万人ほどもいたのである。



 その後1917年にロシア革命が起こり混乱状態に陥ると、シベリアまでが内戦状態に陥った。シベリアに抑留されていたポーランド人も巻き込まれ、戦火により家や財産を失って難民となる人々が多かった。



 この人々は広大な凍土の荒野をさまようことになり、暖を取るために燃やせるものは何でも燃やし、鉄道の枕木まで燃やした。だが燃料も食料も尽きて次々に餓死、凍死、病死を余儀なくされることになった。この中にはいたいけな子供も多数含まれていた。



 この惨状に、ウラジオストックにいたポーランド人女性のアンナ・ビエルケヴイチが立ち上がり、欧米諸国に両親を失った子供だけでも助けてほしいと要請したが色よい返事は得られなかった。



 そんなアンナが最後の頼みの綱としたのが日本だった。1920年に来日したアンナは、外務省に窮状を切々と訴えた。悲痛な訴えに深く同情した当時の日本政府は、日本赤十字社に孤児救援を要請した。


 内戦が続いているシベリアでの孤児救出活動は、日本赤十字社としても危険が伴い、また莫大な費用と手間が必要である。しかし、日赤はアンナ来日の17日後には救援活動を可決する異例の早さをみせた。


 日赤社長の石黒忠悳は「国交上、人道上、まことに重要な事件にして、救援の必要があり、本社において児童たちを収容して給養いたすーーー」と述べている。かくして1920年から1921年にかけてと1922年の2回にわたり、孤児救出が実施された。



 収容された孤児たちは、ウラジオストックから敦賀へと3〜4回に分けて搬送された。孤児たちは靴を履いていない子も多く、大半の子が栄養失調であった。日赤は衣類、靴、帽子などを新調し、お菓子と一緒に子供たちに与えた。


 こうして765人もの保護された孤児たちは、日本で静養しながら日々勉強もしていたが、やがて横浜港と神戸港から故国へと帰って行った。孤児たちは出港の際に「君が代」を唄って別れを惜しんだ。



 ポーランドの医師ユゼフ・ヤクブケヴィチが次のように語った。


「ポーランド国民は日本に対し、最も深き尊敬、最も深き感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを告げたい、。我らはいつまでも日本の恩を忘れない」


 この言葉は最高、最大の敬愛を示す賛辞であろう。つい最近も日本からポーランドを訪問した人は現地で盛大な歓迎を受けた。


                    参考文献  Saburo 辻 明人








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