2021/12/17 11:06:10

米海軍のサムライと日本のサムライ A




 


 日本のサムライ



 遣米使節の副使を務めた木村喜毅は、代々浜御殿奉行を務める裕福の家に生まれた。安政四年に長崎海軍伝習所の二期生以降の監督を命じられた。


 遣米使節の副使を命じられた木村喜毅は、日本人だけの航海を危ぶんでいた。


 この頃、日本人だけで航海できると勝鱗太郎や赤松大三郎が強硬に主張していた。木村喜毅は当時、勝鱗太郎より七歳も若く、海軍についての知識も常識程度の持ち合わせしかなかったが思慮深く統率力に優れた人物であった。


 (この時、勝鱗太郎は37歳である。)



 米国渡航の前は、軍艦奉行並であったが軍艦奉行に任じられた木村喜毅は、航海技術に優れた人物はいないかと横浜へ探しに行って、ブルック大尉と出会うことになった。


 ブルック大尉の人格高潔さや豊富な航海経験を知った木村喜毅は咸臨丸への乗船を依頼したのである。そして「邦人のみで行く」と言う勝や「技能を持っている日本人武人の面目を棄損する」と言う赤松大三郎に、「単なる便乗者」と言って説得した。



 勝鱗太郎はブルック大尉に面会した後は、その人物・力量に惚れ込み、願ってもない案内者と認め、他の士官たちの説得もした。様々な混乱の後に咸臨丸は浦賀を出港した。


 サンフランシスコに到着した木村喜毅は、遣米副使としてワシントン迄行く積りであったが断念し咸臨丸で帰国することにした。


「既に正史たちが安着したので、予はワシントン迄行く必要はなく、先に帰って政府に報告すべきだ、ワシントンへ行けないのは極めて遺憾なことである」「わが艦ここに滞在中、我が在らざれば取締向如何と懸念なきにもあらず、その上乗組の内にも異議ありて、予がワシントンに至るを拒む者あり」


と後に記している。



 勝鱗太郎に反感を持つものもかなりの数になり、統率が取れないことを案じたようだ。咸臨丸は米海軍造船所に回航され修理を行った。木村喜毅は修理費を払うと申し出たが、修理費はアメリカが全額負担した。これを受けて木村喜毅は、サンフランシスコの消防士や、船員の未亡人団体に25,000ドルを寄付した。


 木村喜毅は日本を立つ前に金目の家財を全て処分し、三千両もの私の金を持参していた。



 更に幕府からも、個人の拝借金として五百両を借り入れてこれも携行していた。アメリカの団体に寄付された金もこの中から出ている。また荒天で水夫が働く気力を失った時、サンフランシスコへの入港が迫った時などに褒美を出して士気を鼓舞した。


 士官や水夫らの故郷への土産も木村喜毅の金で調えられた。航海中に病気になり、死亡した水夫(3人)の墓の造営と供養、病気でアメリカに残らざるを得なかった水夫たちの治療費、生活費も木村喜毅が払いブルック大尉に依頼した。


 尚、この際には勝鱗太郎も私費を捻出したという。



 日本人一行はサンフランシスコで市長を始め市民にも大歓迎された。ホテルの宴席で市長が「日本の皇帝とアメリカ大統領の為に乾杯」と音頭をとった。


 木村喜毅は「いま日本の皇帝の為に乾杯して頂いたが、その名前がアメリカ大統領の前にあった、今度は大統領の名前を先に、アメリカ大統領と日本の皇帝の為に乾杯して頂きたい」


と述べて会場から拍手喝采が起こった。



 サンフランシスコでブルック大尉と別れる時に、木村喜毅は大尉を自分の船室に呼んで、千両箱を差し出して、お礼なので好きなだけとってくれ、と頼んだ。だが人格高潔な大尉はこの申し出は辞退したものの、木村喜毅の温情には強く心を打たれた。


 木村喜毅は自分や家族の生活を投げうって、遣米使節副使の使命を果たし、幕府や日本の為に全ての私財を提供したのである。日本に帰り着いた時には、持って行った三千五百両は全て使い果たしていた。


 現代の金額を想定すれば、およそ1億8千万円ほどになろうか。


 そして幕府から借り入れた五百両は節約に努めて多額の戻入をした。


これぞニッポンのサムライであろう。


 この木村喜毅の事績が、あまり知られていないのは残念なところである。


 木村喜毅は後に叙爵して従五位下となり摂津守を名乗ったが、時を経ずに幕府は瓦解の憂き目をみたのである。



 ちなみにこの米国行きで一番得をしたのは福沢諭吉だった。福沢は遣米使節が派遣されると知って、無理矢理に木村喜毅に頼みこんでついて行ったものという。福沢は通訳としては殆ど役に立たなかったが、米国では公金で膨大な書物を買いあさった。



 帰国後、公金横領で告発されたが、その直後に維新戦争が始まり、この件はうやむやになり結局福沢はお咎めもなしで、それらの洋書を全て私物化してしまった。そしてそれらの本を翻訳し、「西洋事情」などを出版しベストセラー作家となった。


 また船酔いで殆ど自室を出ず、不平、不満、我儘を言い、不貞腐れて反感をかった他に、采配判断ミスなど多くの失態を晒したのは勝鱗太郎であった。


          参考文献  田村洋一 咸臨丸始末


                藤井 哲博 幕末・明治のテクノクラート


                ウイキぺペデイア


                風雲児たち みなもと太郎







2021/12/09 12:48:08

米海軍のサムライと日本のサムライ @



 


 米海軍のサムライ



 日米修好条約の調印が終わり、批准書の交換がワシントンで行われることになった。遣米使節には外国奉行の水野忠徳が選任され、アメリカから派遣された軍艦に乗船して渡米することになった。


 この米軍艦とは別に日本側も随伴船を仕立てて、副使として軍艦奉行の木村喜毅が行くことになった。これに使用されたのが咸臨丸である。これは護衛を名目とした幕府海軍の訓練、練習航海の目的も持っていた。



 咸臨丸の乗組員は軍艦操練所教授方頭取の勝麟太郎、測量方兼運用方の小野友五郎、通弁主務の中浜万次郎の他、水夫などの67名であった。その他に木村の従者として福沢諭吉などの数人、勝鱗太郎の従者、主計、医務などを含めると96名にもなった。


 更にジョンマーサーブルック大尉の一行11人が加わり、合計107人が咸臨丸に乗船した。咸臨丸の定員は85名とされていて、かなりの定員オーバーを犯すことになった。



 ブルック大尉は米海軍内で豊富な航海経験と測量技術を持っており海図の作成なども行っていた。日本には「北太平洋・ベーリング海・東シナ海・水路探検隊」の航海士として来日した。



 香港から水路探検を始め小笠原、琉球諸島の精密な経緯度測定を行って下田港に入った。ここでペリーによって開港されたばかりの下田と、函館を結ぶ東海岸航路を測量する分遣隊長を命ぜられ、三週間かかって東北地方の沿岸を測量した。


 ついで千島、カムチャッカ、アリーシャン列島を沿いにベーリング海を測量しサンフランシスコに帰港した。この三年後にブルック大尉は、米海軍にサンフランシスコから香港の蒸気船航路調査を命じられた。


 この時に、ブルック大尉に託された軍艦は、たった96トンのスクーナー艦「フェニモア・クーパー」号である。



 ブルック大尉は先の任務を終了し、香港から江戸湾へと入ってきた。日本での目的は、ハリスが開港の約束を取り付けた神奈川、長崎、新潟、兵庫の諸港の測量であった。この目的の為、ブルック大尉が幕府との交渉に赴いた留守中に「フェニモア・クーパー」号は、台風の直撃にあい江戸湾口で沈没してしまった。


 それから半年の間、ブルック大尉は横浜に留まり帰国の便船を探していた。


 当初、幕府が遣米使節の随判船として予定していたのは、咸臨丸ではなく観光丸であった。だがブルック大尉の「外輪船の観光丸では、この季節の太平洋を横断するのは不適当、スクリュー船を用いるべき」とのアドバイスにより、咸臨丸を使用することになった。



 この時34歳のブルック大尉は技術アドバイザーとして咸臨丸に乗船した。


浦賀を出港した咸臨丸は、外海に出ると間もなく強烈な荒天に見舞われた。


これほどの荒海を経験したことのない日本人は、殆ど船酔いで倒れてしまった。


 従って運航・操船はブルック大尉とその部下が行った。これに協力できたのは、中浜万次郎、小野友五郎、浜口與右衛門くらいだった。


 ブルック大尉の日記には「船は激しく縦揺れしている、デッキに出るとメインマストの帆が裂けていたので、その帆をたたむ、非常に荒い海で日本人は全員船酔いだ、提督(木村)はまだ自室にいる、艦長(勝)も同様だ」


「強い風で波も高い、日本人たちも段々船酔いから回復してきた、提督も艦長もまだ病気だ」(翌日の日記)


と書いている。



 斎藤留蔵の正月20日と25日の日記は次のように記している。


「風は猛強で波濤は甲板上に三尺から四尺も灌ぐ、船の動揺も甚だしく乗組員の規律も失し、甲板に出て作業出来ている物は僅か4〜5人のみ、帆布を上下する作業も一切アメリカ人の助力を受ける、彼らはこの暴風雨にも恐怖を覚えず、平常の働きをした、これに次ぐものは中浜氏、小野氏、浜口氏の三人のみで他は皆恐懼し殆ど食べ物も採れない状態」


「風強く波濤狂激し、甚だしく船中に注入され甲板の一番下の我らの居所は水浸しになり、皆周章し声を発する者なし船舷震激の激しきこと例えるものなし」



 ブルック大尉の25日の日記は「メインマストの帆をたたみ、前マストの帆桁を風の方向に合わせる、物凄い波があるが、舵はよくきく、我々の乗組員が操舵や見張りなど、当直士官のなすべきことをみなやっている、あられを伴った強いスコールが時々来る」と記している。


 荒天は一週間ほど続き、温帯低気圧の中に入った27日はブルック大尉たちが終夜甲板を離れず警戒に当たった。 



 飲料水は厳重に管理されていたが、途中から勝鱗太郎が、飲用の他に使ってはいけない、と命令を出した。しかしアメリカの水兵が貴重な水を使って自分の下着を洗濯してしまった。これを見つけた日本の事務官が水兵の顔を足蹴にした。水兵はピストルを構え、事務官は刀の柄に手をかけた。



 騒ぎを聞きつけた勝鱗太郎とブルック大尉もこの場に出てきた。次第を聞いたブルック大尉は「よろしい斬って下さい」と言った。共同生活の掟を破った者に対して落ち着いて、進んで処刑を求めたのである。


 もし水兵が斬られていれば、ブルック大尉も帰国後に、遺族に対して何らかの責めを負わなければならなかったかもしれない決断だった。この事件は勝鱗太郎とブルック大尉の握手で収められた。



 一説(こちらが真相と思われる)では、ブルック大尉に日本人が「どうもアメリカの水兵が水を使ってしまうので困る」と言った。するとブルック大尉は「それは共同の敵だから説諭も要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、直ちに鉄砲で撃ち殺してくれ」と言った。


 日本人とアメリカ人を平等に扱い、規律を厳正に守る姿勢を示したのであった。



 このブルック大尉の対応には、咸臨丸士官はじめ乗組員は大いに感激し、大尉に対する日本人の見る目はそれ以来変わっていった。


 サンフランシスコに着いたブルック大尉は、日本人の面目を潰さぬように未熟な航海術には一切触れずに、次のように述べた。



「日本の士官は航海術に習熟し、水夫は海上の作業に完全に通じていた、――帆船作業も敏速に処理した――始め当直についてはいささか厳正を欠くところがあったが、それが必要と分かるときちんと実行するようになった」


 そして部下にも日本人の未熟さを公言しないよう、釘をさしていたのである。


 この時の発言にある「航海術に習熟」とは、最先端技術「月距法」を駆使する小野友五郎のことであろう。この後ブルック大尉と小野友五郎は、一生親交を続けることになった。



 ブルック大尉は、自分の航海日記を50年間は公開することを禁じていた。日本の国際的立場を慮り、日本人が揶揄や侮りの対象とならぬよう、米国のメディアに対しても配慮をしてくれたのだ。


 この後、ブルック大尉は帰国し、南軍に加わり中佐に昇進し、更に海軍兵站・測量局の長官となった。彼が軍役中に開発した新型施条砲はブルック砲と名付けられている。



  参考文献 田村洋一 咸臨丸始末


      藤井 哲博 幕末・明治のテクノクラート


               ウイキぺペデイア


               風雲児たち みなもと太郎






会社概要

会社名
(株)親栄商事
カナ
シンエイ ショウジ
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