2021/11/08 11:01:18

 トルコ・ポーランドとロシアの違い A





ポーランド人孤児救出



 ロシアの極東地域にあたるシベリアは、永久凍土が連なる文字通り酷寒の土地である。1月の平均気温はマイナス40℃で、最低気温は70℃になることもある。地の果て、とも言えるエリアである。


 ポーランドは歴史上周辺強国の侵略をたびたび受けていた。100年ほど前も大国ロシアに従属させられており、抵抗する人々はシベリアに流刑とされ重労働を課されていた。この流刑とされたポーランド人は、その家族を含め15万人から20万人ほどもいたのである。



 その後1917年にロシア革命が起こり混乱状態に陥ると、シベリアまでが内戦状態に陥った。シベリアに抑留されていたポーランド人も巻き込まれ、戦火により家や財産を失って難民となる人々が多かった。



 この人々は広大な凍土の荒野をさまようことになり、暖を取るために燃やせるものは何でも燃やし、鉄道の枕木まで燃やした。だが燃料も食料も尽きて次々に餓死、凍死、病死を余儀なくされることになった。この中にはいたいけな子供も多数含まれていた。



 この惨状に、ウラジオストックにいたポーランド人女性のアンナ・ビエルケヴイチが立ち上がり、欧米諸国に両親を失った子供だけでも助けてほしいと要請したが色よい返事は得られなかった。



 そんなアンナが最後の頼みの綱としたのが日本だった。1920年に来日したアンナは、外務省に窮状を切々と訴えた。悲痛な訴えに深く同情した当時の日本政府は、日本赤十字社に孤児救援を要請した。


 内戦が続いているシベリアでの孤児救出活動は、日本赤十字社としても危険が伴い、また莫大な費用と手間が必要である。しかし、日赤はアンナ来日の17日後には救援活動を可決する異例の早さをみせた。


 日赤社長の石黒忠悳は「国交上、人道上、まことに重要な事件にして、救援の必要があり、本社において児童たちを収容して給養いたすーーー」と述べている。かくして1920年から1921年にかけてと1922年の2回にわたり、孤児救出が実施された。



 収容された孤児たちは、ウラジオストックから敦賀へと3〜4回に分けて搬送された。孤児たちは靴を履いていない子も多く、大半の子が栄養失調であった。日赤は衣類、靴、帽子などを新調し、お菓子と一緒に子供たちに与えた。


 こうして765人もの保護された孤児たちは、日本で静養しながら日々勉強もしていたが、やがて横浜港と神戸港から故国へと帰って行った。孤児たちは出港の際に「君が代」を唄って別れを惜しんだ。



 ポーランドの医師ユゼフ・ヤクブケヴィチが次のように語った。


「ポーランド国民は日本に対し、最も深き尊敬、最も深き感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを告げたい、。我らはいつまでも日本の恩を忘れない」


 この言葉は最高、最大の敬愛を示す賛辞であろう。つい最近も日本からポーランドを訪問した人は現地で盛大な歓迎を受けた。


                    参考文献  Saburo 辻 明人








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