トルコ・ポーランドとロシアの違い C
ロシアの日本人シベリア抑留
第二次世界大戦末期、日本がポツダム宣言を受諾して降伏したのは8月15日である。翌16日には大本営から即時停戦命令が出されて、関東軍は停戦と降伏を決定した。
その降伏のわずか6日前の8月9日、既に敗色が濃厚だった日本に対して、日ソ中立条約を破棄して、突然日本に対してソ連は宣戦布告した。同時に満州国、日本領朝鮮半島の北部に侵攻した。
日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領・南樺太へ18日には千島列島にも侵攻し占領した。8月19日には日ソの間で停戦交渉が行われ、武装解除後の在留民間人保護について合意をみたが、ソ連軍はそれを守ることはしなかった。
8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の文書を作成しソ連側に送付したという。
占領地域の日本軍は、ソ連軍によって8月下旬までに武装解除されたが、この際には多数の死傷者が出たという。この時に日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず既に除隊していた男性も強引に連行した。このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に違反するものであった。
連行されたのは日本軍将兵の他に、在満州民間人、満蒙開拓移民団の男性である。行く先は告げずに、ソ連軍は彼らを貨車に詰め込む際に「ダモイ」(帰れるぞ)と叫びながら連行したという。
千人ほどの作業大隊に編成された捕虜たちは、シベリアの他にもモンゴル、北朝鮮、中国、ウズベキスタン、ウクライナなどのソ連の勢力圏に送られ重労働に従事させられた。
収容された彼らの毎回の食事は黒パンが一つと薄いスープだけだった。抑留者たちは栄養失調になり、皆が日に日にやせ細っていった。作業は、氷点下の中での森林の伐採や鉄道の敷設、炭鉱での採掘などの重労働であった。衛生状況も劣悪で身体中にノミやシラミが湧き、赤痢やコレラといった伝染病が発生した。
休養も与えられず酷寒の環境下におかれた抑留者たちは、約6万人が死亡したのである。抑留された日本人は65万人とされ、一説には70万人とも言われ、最高数では200万人との説もある。
モンゴルの収容所では栄養不足から4,000人もの抑留者が死亡した。
1947年から漸く日本への帰国事業が行われ47万3千人が帰国できた。早く帰国できた人でも終戦から2年後であり10年後、11年後になって漸く帰国できた人たちもいた。
収容所では共産主義の教育が、定期的に実施されていたこともあり、帰国に際しては「日本で共産主義を広める活動をする」と念書を書いて早期に帰国できた者もいた。
この辛辣で過酷を極めた捕虜に課した重労働、待遇はまことに非人道的なものである。この行為に対して、エリツィンは謝罪の意を表したというが、真摯で日本国民に受け入れられる謝罪はいまだ行ってはいない。
北方領土交渉においても、ロシアの方針は、出来るだけ日本から投資などで金を引き出すが領土問題では絶対に譲歩しない、というものであろう。
沈没船救出などではトルコと類似した経緯があったが、同国との相違が際立つように思える。
アメリカは戦時中に在米の日本人・日系人を収容所に収監した。戦後、
アメリカはこの政策を過ちと認めて謝罪した。
日本人の人道的貢献は、多くのユダヤ人の危難を助けた杉原千畝の事例も広く知られているところである。またタイタニック号沈没の際には、他の乗客を優先させて、自分は一番最後に救難ボートに飛び乗った日本人も称賛に値する。
参考文献 ウィキぺデイア 舞鶴引揚記念館
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