60年前の赤ちゃん
DNA鑑定から別の赤ちゃんと取り違えられたことが分かったと東京都内の男性(60)らが損害賠償を求めていた訴訟で、東京地裁は病院に3800万円の支払いを命じる判決を言い渡した。裁判長は判決で病院で赤ちゃんが取り違えられたと認めたうえで、「経済的に恵まれたはずだったのに貧しい家庭で苦労を重ねた」と賠償命令の理由を述べた。
生みの親か?育ての親か?血の繋がりなのか?一緒に過ごした時間なのか?難しい問題であるが、今回このニュースには非常に違和感を感じた。それは「経済的に恵まれたはず・・・」と言う点である。原告の家庭は経済的に厳しい環境の為、進学を断念したそうだが、それ自体が「こっちは損した感」満載で、どうも育ての親に対しての恩義に欠けている気がしてならない。もし原告が恵まれていた側であったら、そもそもこの訴えはしたのだろうか?
もし私だったらまず調べない。怪しいと思っても調べない。私は絶対に一緒に過ごした時間を優先するだろう。だから世の中には知らない方がいい事はたくさんあると思う。
辞めさせられるって話
小学生低学年の頃、放課後の学級会では「学級委員長を辞めさせたいと思います」との提案がたまに挙がった。
提案した生徒は用意周到に事前に提案することをクラス中に触れまわり、クラスの代表意見として挙手をして得意気に発言するとクラス中が「おぉ〜」とどよめく。ただその学級委員長が実際辞めさせるのに値するような失態があった訳でも無く、ただ何となく「気に食わない」とのほんの些細な理由で提案し、学級委員長は泣き出す・・・それがお決まりのパターンだったような気がする。 (現在ではこれはいじめになるのだろう)
最近のニュースを見ているとそんなことをふと思い出した。
何でもかんでも「責任問題」を追及して「辞任」に追い込むばかりで、大物司会者でさえ、責任を取ることが辞めることの図式になりつつある(それが例え「大きな子供」でもである)。以前某スポーツ団体での不祥事が発覚した際、すべて解決するまで辞職しないと宣言したトップが、「居座っている」と大バッシングされ途中で辞めさせられたが、本来であれば責任の取り方はこうであると思っていた私は非常に残念でならなかった。
ちなみにこのようなことはうちのクラスだけだったのか?この学校だけだったのか?またその時、実際に辞めさせられてしまったのか?担任の先生がどう対処したのかは全く記憶にない。
生きる力
錦糸町で友人と飲んだ。駅前の呼び込みに誘われるがままテナントビルの中の居酒屋に入る。内装からして高級感漂う、広い店に入った。すると若い男の店員さんから「あの〜新小岩の方ですよね?」との問い掛け。
だ、誰だ?
申し訳ないが全く記憶にない青年で、必死に過去の記憶を辿り寄せるが、最近めっきり私の記憶の糸は細く、短く、ブツブツと切れてしまっているので、皆目見当が付かなかった。よくよく話を聞くと彼は娘の小学校時代の同級生とのこと。でも私は話したことも接点も何も無いが、彼は娘と私が歩いている姿を見て覚えていたそうで、さらに「不動産屋さんですよね?」と恐るべき記憶力を次々に披露する。「凄ぇ〜記憶力じゃん」と褒めると、昔から記憶力だけはいいとのことと誇らしげな彼。
その後も料理を運んでくれる度に、「今度お店を任せされるようになった」とか「(私も知っている)娘の友達のこと」とか色々と話し掛けてくれた。接客業を心から楽しんでいる様子が見ていてよく分かり、とても気分の良い接客だった。
「生きる力」を持っている若者はいつだって気持ちが良いもんだ。
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