2009/06/25 13:33:44
三種の神器 神剣・草薙剣の行方 U
この時期あたりで代器(レプリカ)になったとする論者もいる。「古語拾遺」には崇神の時代に、神威を恐れて同じ宮中に居られると不安であるとして、斎部氏に鏡と剣を作らせ、これを護身御璽とされたとある。
これは今日の践祚の日に神の御璽として使う鏡と剣である。本物の鏡と剣は笠縫村に、神籬(比茂呂儀)を立ててアマテラスと草薙の剣を移した。
その日の夕方、人は皆集まり終夜宴を開き楽で歌った。ここで注意を払いたいのは、古語拾遺には剣を移した記事だけが書かれていて、紀に書かれている倭大国魂神(大物主神と同一視されている)をも、宮中から同時に出したことは書かれていないのである。
重要なことではなかったので省略したのか。あるいはその事実がなかったのか、その詳細は分からない。
古語拾遺を読む限り、朝廷の官人はアマテラスと別居することが余程嬉しかったように見える。これは何を意味しているのだろうか。
アマテラス勢力を支配して、その支配を確立し継続していくために、アマテラスを祀っていたが祟られることが多かった。ゆえに複製品を作り笠縫村へと追放したと言っているのと同じである。
ここで菅原道真の故事が思い起こされる。
紀では言葉を濁して、オブラートで包んだような表現をしているが、古語拾遺は斎部氏(忌部)の家伝なのではっきりと書いている。
また、ヤマタノオロチから出てきた天叢雲剣の話のほかに、見過ごすことの出来ない重要な記事を載せている。
豊芦原中国をタケミカズチと経津主が平定したときのことである。大巳貴(オオナムチ)と事代主の二人が退去する際に、国を平定した矛を二神に授けたというものである。
「私はこの矛で国を平定した、天孫がもしこの矛を用いて国を納めれば、必ず平安が来るであろうから私は退去する。」と言ってその後隠れられた。
ここに経津主とタケミカズチは、帰順しない悪しき神々を誅し復命した。
という記事である。この大巳貴と事代主の矛の事は他の古文献には見えない。実際は大巳貴が退去する際の条件として、所有していた貴重な剣を献上したのではなかったか。
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